竹竿との出会い
ボクは昭和40年の早生まれである。小学生の頃に「釣りキチ三平」を見て育った。
「釣りキチ三平」には一平爺さんの和竿作りが度々登場するが、それを見て竿師になってみたいと思った事もあった。
中学に入ってから渓流釣りに行くようになった。高校の時に加藤須賀雄著「かげろうの釣り(つり人社刊)」や山本素石氏の本を見てから「テンカラ釣り」に興味を持ち、一シーズンテンカラ釣りのみで費やしたこともあった。
それらの本には、てんから竿には竹竿が良いということが書かれており、いつかは欲しいと思った。

高校三年の時、竿師になろうと血迷ったことを決心した。月刊つり人には「銀座東作」の和竿の広告がいつも載っていたので、ここにしようと思い電話を掛けた。
高三の5月、面接の為に東京に出向いた。当時はちょうどカーボンロッドが主流になってきた頃で、和竿の職人さんも仕事が減って大変だと教えられた。これからは商売を覚えた方が良いという先代の松本勇さんの勧めもあり、竿作りではなくお店番として働くことになった。竿作りは店番をしながらでも少しずつ教えていただけると言うことで、自分にとっては楽しみだった。しかし残念なことにボクが在京中に64歳で他界された。とても優しくて思いやりがあり、物腰の柔らかい言葉の端に江戸っ子らしい気風を感じさせる老紳士であった。
面接の日に初めて和竿に触れた。テンカラ竿が2万8千円で売っていた。その上のクラスになると倍以上の金額だったので、一番手頃なテンカラ竿と竹籠をお土産にして自宅に戻った。
その翌年の春からボクは銀座東作の社員となった。
ボクも和竿屋に勤めているので和竿を使って釣りをした。渓流では奥多摩を中心に関東近県から遠くは山形・秋田・岐阜・静岡とあちらこちらと釣りに行った。
和竿の良さは、あたりが良く取れたり、魚の食い込みが良かったり、魚を掛けた時にあまり暴れずに自然と自分に寄ってくるといった事があげられる。この事は誰しもが口を揃えて仰っていた。
当時のボクは渓流一辺倒だったのだが、釣具屋という商売上いろんな釣りを覚えることになった。お店の主流は江戸前の釣りになるのだが、鮎や渓流にも力を入れていたので客層は幅広かった。
フライの道具も少しばかり扱っていた。バンブーロッドは喜楽さんの物を扱っていた。
他にもガルシアのグラスが何本もあったし、1本だけ海外の6ft位のバンブーロッドもあった。何処のメーカーか記憶にないが、とても張りのある素材だったのを覚えている。
当時の常連さんで、テンカラとフライをする方がいらした。この方が和竿でフライロッドを作れないかと言うことで、総布袋竹のフライロッドを別誂で拵えたことがあった。
この方が見本で持ってきた9ft程のフライロッドは、今思えばHardyだったような気がする。
そんなこんなで丸四年間銀座東作に勤めたのだが、昭和62年の春に帰郷した。
帰郷後も和竿の渓流竿を使って地元の渓流を釣り歩いていた。
ボクの渓流竿と鮎の友竿は川口の俊行作さんに作っていただいた物だ。
俊行作さんは四代目東作のお弟子さんである東俊さんのお弟子さんで、鮎竿や渓流竿が特に有名だ。竿作りに掛ける情熱が熱く研究熱心で、人情にも厚い方だった。銀座東作の先代と工房に遊びに行ったのがご縁で善くしていただいた。上京の折にも何度かお邪魔させていただいたりもした。
俊行作さんも残念ながら若くして亡くなられた。享年69歳だったと思う。
和竿は使うとどうしても曲がり癖が出てしまう。シーズンが終わると竿師さんに火入れ(曲がり癖を伸ばして真っ直ぐにすること)をお願いするのだが、俊行作さんが亡くなってしまっては別な職人さんに頼むしかない。それが気がかりだった。
この事がボクにとって大きな転機になった。

昭和63年、東作の和竿で釣った大アマゴ。この時は東京時代の釣り仲間に誘われて、郷里から静岡まで釣りに出かけた。
ちょうどその頃、仕事でフライ専門店に出向くことになった。
以前からそこの社長さんとは面識があったのだが、何度かお店に足を運ぶうちにグラスのフライロッドを半値で売っていたのが目に付いた。
遊び半分でそのロッドと、必要な小物など一式を揃えて貰ったのが運の尽き。ボクとフライフィッシングが離れられない関係になってしまった。
テンカラをやっていたのでドライフライで魚を釣ることは容易いことだった。
しかしそこのお店の常連さん達はウエットだパワーウエットだと話題が大物の話になっている。キャスティングも上手い人だらけだ。当然ボクもそういった人たちの影響でサワダ製品に身を固めることとなった。
そうするとPezon et michelのバンブーロッドが気になり始める。
その頃は既にサワダではペゾンを扱っておらず、入手するには中古を見つけるしかなかった。
ちょうど仕事にインターネットを導入した頃で、YAHOOオークションという釣具屋泣かせの便利なシステムを知った。
当時は今ほどフライ関係の出品はなかった。ヤフオクを始めてすぐにペゾンのファリオクラブを発見した。嫁さんに泣きついて了解を取り、生まれて初めてのバンブーロッド「ファリオクラブ」を手に入れた。前のオーナーさんが使わずにとっておいた物で、まっさら状態。102,000円で落札した。
これがボクとバンブーロッドの始めての出会いだった。
その後もペゾンの誘惑からボクは逃れられず、何本ものペゾンと出会うこととなった。

Pezon et michel「ファリオクラブ」とニジマス
「釣りキチ三平」には一平爺さんの和竿作りが度々登場するが、それを見て竿師になってみたいと思った事もあった。
中学に入ってから渓流釣りに行くようになった。高校の時に加藤須賀雄著「かげろうの釣り(つり人社刊)」や山本素石氏の本を見てから「テンカラ釣り」に興味を持ち、一シーズンテンカラ釣りのみで費やしたこともあった。
それらの本には、てんから竿には竹竿が良いということが書かれており、いつかは欲しいと思った。

高校三年の時、竿師になろうと血迷ったことを決心した。月刊つり人には「銀座東作」の和竿の広告がいつも載っていたので、ここにしようと思い電話を掛けた。
高三の5月、面接の為に東京に出向いた。当時はちょうどカーボンロッドが主流になってきた頃で、和竿の職人さんも仕事が減って大変だと教えられた。これからは商売を覚えた方が良いという先代の松本勇さんの勧めもあり、竿作りではなくお店番として働くことになった。竿作りは店番をしながらでも少しずつ教えていただけると言うことで、自分にとっては楽しみだった。しかし残念なことにボクが在京中に64歳で他界された。とても優しくて思いやりがあり、物腰の柔らかい言葉の端に江戸っ子らしい気風を感じさせる老紳士であった。
面接の日に初めて和竿に触れた。テンカラ竿が2万8千円で売っていた。その上のクラスになると倍以上の金額だったので、一番手頃なテンカラ竿と竹籠をお土産にして自宅に戻った。
その翌年の春からボクは銀座東作の社員となった。
ボクも和竿屋に勤めているので和竿を使って釣りをした。渓流では奥多摩を中心に関東近県から遠くは山形・秋田・岐阜・静岡とあちらこちらと釣りに行った。
和竿の良さは、あたりが良く取れたり、魚の食い込みが良かったり、魚を掛けた時にあまり暴れずに自然と自分に寄ってくるといった事があげられる。この事は誰しもが口を揃えて仰っていた。
当時のボクは渓流一辺倒だったのだが、釣具屋という商売上いろんな釣りを覚えることになった。お店の主流は江戸前の釣りになるのだが、鮎や渓流にも力を入れていたので客層は幅広かった。
フライの道具も少しばかり扱っていた。バンブーロッドは喜楽さんの物を扱っていた。
他にもガルシアのグラスが何本もあったし、1本だけ海外の6ft位のバンブーロッドもあった。何処のメーカーか記憶にないが、とても張りのある素材だったのを覚えている。
当時の常連さんで、テンカラとフライをする方がいらした。この方が和竿でフライロッドを作れないかと言うことで、総布袋竹のフライロッドを別誂で拵えたことがあった。
この方が見本で持ってきた9ft程のフライロッドは、今思えばHardyだったような気がする。
そんなこんなで丸四年間銀座東作に勤めたのだが、昭和62年の春に帰郷した。
帰郷後も和竿の渓流竿を使って地元の渓流を釣り歩いていた。
ボクの渓流竿と鮎の友竿は川口の俊行作さんに作っていただいた物だ。
俊行作さんは四代目東作のお弟子さんである東俊さんのお弟子さんで、鮎竿や渓流竿が特に有名だ。竿作りに掛ける情熱が熱く研究熱心で、人情にも厚い方だった。銀座東作の先代と工房に遊びに行ったのがご縁で善くしていただいた。上京の折にも何度かお邪魔させていただいたりもした。
俊行作さんも残念ながら若くして亡くなられた。享年69歳だったと思う。
和竿は使うとどうしても曲がり癖が出てしまう。シーズンが終わると竿師さんに火入れ(曲がり癖を伸ばして真っ直ぐにすること)をお願いするのだが、俊行作さんが亡くなってしまっては別な職人さんに頼むしかない。それが気がかりだった。
この事がボクにとって大きな転機になった。

昭和63年、東作の和竿で釣った大アマゴ。この時は東京時代の釣り仲間に誘われて、郷里から静岡まで釣りに出かけた。
ちょうどその頃、仕事でフライ専門店に出向くことになった。
以前からそこの社長さんとは面識があったのだが、何度かお店に足を運ぶうちにグラスのフライロッドを半値で売っていたのが目に付いた。
遊び半分でそのロッドと、必要な小物など一式を揃えて貰ったのが運の尽き。ボクとフライフィッシングが離れられない関係になってしまった。
テンカラをやっていたのでドライフライで魚を釣ることは容易いことだった。
しかしそこのお店の常連さん達はウエットだパワーウエットだと話題が大物の話になっている。キャスティングも上手い人だらけだ。当然ボクもそういった人たちの影響でサワダ製品に身を固めることとなった。
そうするとPezon et michelのバンブーロッドが気になり始める。
その頃は既にサワダではペゾンを扱っておらず、入手するには中古を見つけるしかなかった。
ちょうど仕事にインターネットを導入した頃で、YAHOOオークションという釣具屋泣かせの便利なシステムを知った。
当時は今ほどフライ関係の出品はなかった。ヤフオクを始めてすぐにペゾンのファリオクラブを発見した。嫁さんに泣きついて了解を取り、生まれて初めてのバンブーロッド「ファリオクラブ」を手に入れた。前のオーナーさんが使わずにとっておいた物で、まっさら状態。102,000円で落札した。
これがボクとバンブーロッドの始めての出会いだった。
その後もペゾンの誘惑からボクは逃れられず、何本ものペゾンと出会うこととなった。

Pezon et michel「ファリオクラブ」とニジマス
ボクの写真の原点
昭和58年に上京したボクは東京都内の老舗釣り道具店に就職した。
その翌年、日本渓流釣連盟が「渓流」という機関誌を発行した。
勤めていた店にもその冊子を置くことになったのだが、その表紙写真を見たボクはぎょっとした。まるでゴジラのような顔なのだが、よくよく見るとイワナの顔のUPなのだ。いったいどれくらいの大物なのか。スゴイ迫力の顔だ。
その時に「秋月岩魚」という写真家の存在を知った。
その翌年、秋月岩魚さんがボクの勤めている釣具店を訪れてきた。
この稿を書くにあたりいろいろと書物を引っ張り出してみたら、先程の冊子の間に秋月岩魚写真展「釣人心象」のポストカードが挟まっていた。確かそれを届けにいらしたと記憶している。
その時のボクは会話らしい会話をしておらず、秋月さんもお忙しいようですぐに帰られてしまった。今にして思えばとても残念だ。
ちょうどその頃、釣りの本には必ずといっていいほど秋月さんの写真が載っていた。

ボクが東京に居た四年間のうちの後半2年間は渓流釣りだけでは飽きたらず沢登りまで首を突っ込んでしまった。
その頃はボクも幾度か紙面に登場したことがあった。
そのうちの一度、山形の源流釣行の際にプロカメラマンの岡田昇さんが同行することになった。この時も岡田さんとの会話はあまり記憶がない。彼の卓越したクライミング技術で絶壁の途中から自分たちの遡行中の写真を撮影してくれていた。

その数年後、今度は源流仲間の祝いの席に呼ばれ、今度は津留崎健さんと会った。
その頃はつり人社の「渓流◯◯」という源流紀行が中心の本が注目されていた。
この本には「渓流'86」以降から必ず津留崎さんの写真が掲載されており、迫力のある写真が目を引いた。
津留崎さんとお会いしたときも挨拶程度しか交わしていないのが残念でならない。


当時のボクは餌釣りで、スナップ写真くらいしか写真を撮るということはしなかった
その頃のボクは釣りの本を見ても、ポイントとか魚の大きさとかのほうに興味があったので特段写真に興味を覚えたわけではないが、必然的に写真の美を刻み込まれていたような気がする。
1999年、フライフィッシングを始めるようになってから、釣った魚をリリースするということが当然のようになった。
折角の想い出を残したいと思い始め、カメラを携えるようになった。
その時偶然にも釣出版社のプロカメラマンHさんと知り合うことが出来た。
彼からはいろいろなお話しを聞かせていただき、写真の奥深さを気付かせていただいた。
それからというもの、綺麗な写真を撮るためにさまざまな本を見た。
Sawadaのマインドアングラー誌に載っている写真や「日本の巨大渓流魚」などは迫力ある魚の写真が多くて憧れた。
それから、秋月岩魚さんの写真集や津留崎健さんの写真集なども買った。
秋月さんの写真が多く載っている「ヘッドウォーター」なども探し出して購入した。
他にも高野建三さんや佐藤成史さんの本も買った。
さらに構図や露出、絞りなどを勉強するためにカメラのハウツー本なども何冊も見た。


おかげでなんとか人に見せられる写真も撮れるようになってきた。
プロとアマには歴然とした違いがあるのだが、素人でも偶然良い写真が撮れてしまうことがあるから恐ろしい。
技術的にプロとアマには雲泥の差がある。プロカメラマンのHさんからの一言は今でも忘れない。その事についてはここでは語らないが、プロは思っている以上に凄いんだと思い知らされた。
フライフィッシングをするようになったおかげで写真も趣味に加わったわけだが、自分で釣り上げ、その魚が綺麗な写真に撮れているとき、釣り上げた時と同じくらいの喜びがある。
美しい魚は綺麗な写真に残しておきたいという願望があったおかげでたくさんの写真を残すことになった。失敗写真を見てがっかりすることも多々あるが、過去の写真をあらためて見直すと以外と「おっ!」と感じる写真もあったりして楽しめる。たぶん自分の欲目なんでしょうけどね。
良い写真が撮りたいから、重くても一眼レフは持ち歩く。釣りも写真もやめられないですね。
その翌年、日本渓流釣連盟が「渓流」という機関誌を発行した。
勤めていた店にもその冊子を置くことになったのだが、その表紙写真を見たボクはぎょっとした。まるでゴジラのような顔なのだが、よくよく見るとイワナの顔のUPなのだ。いったいどれくらいの大物なのか。スゴイ迫力の顔だ。
その時に「秋月岩魚」という写真家の存在を知った。
その翌年、秋月岩魚さんがボクの勤めている釣具店を訪れてきた。
この稿を書くにあたりいろいろと書物を引っ張り出してみたら、先程の冊子の間に秋月岩魚写真展「釣人心象」のポストカードが挟まっていた。確かそれを届けにいらしたと記憶している。
その時のボクは会話らしい会話をしておらず、秋月さんもお忙しいようですぐに帰られてしまった。今にして思えばとても残念だ。
ちょうどその頃、釣りの本には必ずといっていいほど秋月さんの写真が載っていた。

ボクが東京に居た四年間のうちの後半2年間は渓流釣りだけでは飽きたらず沢登りまで首を突っ込んでしまった。
その頃はボクも幾度か紙面に登場したことがあった。
そのうちの一度、山形の源流釣行の際にプロカメラマンの岡田昇さんが同行することになった。この時も岡田さんとの会話はあまり記憶がない。彼の卓越したクライミング技術で絶壁の途中から自分たちの遡行中の写真を撮影してくれていた。

その数年後、今度は源流仲間の祝いの席に呼ばれ、今度は津留崎健さんと会った。
その頃はつり人社の「渓流◯◯」という源流紀行が中心の本が注目されていた。
この本には「渓流'86」以降から必ず津留崎さんの写真が掲載されており、迫力のある写真が目を引いた。
津留崎さんとお会いしたときも挨拶程度しか交わしていないのが残念でならない。


当時のボクは餌釣りで、スナップ写真くらいしか写真を撮るということはしなかった
その頃のボクは釣りの本を見ても、ポイントとか魚の大きさとかのほうに興味があったので特段写真に興味を覚えたわけではないが、必然的に写真の美を刻み込まれていたような気がする。
1999年、フライフィッシングを始めるようになってから、釣った魚をリリースするということが当然のようになった。
折角の想い出を残したいと思い始め、カメラを携えるようになった。
その時偶然にも釣出版社のプロカメラマンHさんと知り合うことが出来た。
彼からはいろいろなお話しを聞かせていただき、写真の奥深さを気付かせていただいた。
それからというもの、綺麗な写真を撮るためにさまざまな本を見た。
Sawadaのマインドアングラー誌に載っている写真や「日本の巨大渓流魚」などは迫力ある魚の写真が多くて憧れた。
それから、秋月岩魚さんの写真集や津留崎健さんの写真集なども買った。
秋月さんの写真が多く載っている「ヘッドウォーター」なども探し出して購入した。
他にも高野建三さんや佐藤成史さんの本も買った。
さらに構図や露出、絞りなどを勉強するためにカメラのハウツー本なども何冊も見た。


おかげでなんとか人に見せられる写真も撮れるようになってきた。
プロとアマには歴然とした違いがあるのだが、素人でも偶然良い写真が撮れてしまうことがあるから恐ろしい。
技術的にプロとアマには雲泥の差がある。プロカメラマンのHさんからの一言は今でも忘れない。その事についてはここでは語らないが、プロは思っている以上に凄いんだと思い知らされた。
フライフィッシングをするようになったおかげで写真も趣味に加わったわけだが、自分で釣り上げ、その魚が綺麗な写真に撮れているとき、釣り上げた時と同じくらいの喜びがある。
美しい魚は綺麗な写真に残しておきたいという願望があったおかげでたくさんの写真を残すことになった。失敗写真を見てがっかりすることも多々あるが、過去の写真をあらためて見直すと以外と「おっ!」と感じる写真もあったりして楽しめる。たぶん自分の欲目なんでしょうけどね。
良い写真が撮りたいから、重くても一眼レフは持ち歩く。釣りも写真もやめられないですね。